Webコラム

『愛国の告白』トーク 11:
渡辺えりさん

2022年12月4日
新宿 K's Cinema アフタートークより

『愛国と告白』公式サイト

渡辺えりさん:女優、演出家、劇作家。日本劇作家協会会長。公式フェイスブック

両方の立場からバランスの良い報道がなされることが必要。
その上で、弱者に対しての暖かい眼差しが必要なのではないか?

私とパレスチナ

(土井敏邦)この映画をどうご覧になりましたか?

(渡辺えりさん)このショールは、家に遊びに来てくれたパレスチナ人の方が持ってきてくれたものです。その3人のパレスチナ人の方たちはずっとガザからの出国を拒否されていましたが、やっと日本に来れました。その中のお医者さんからいただいたんです。1人は出国を拒絶されて来れませんでした。4人のうち3人が来ることができて、家に呼んで鍋パーティーをしたんです。

 その時にブドウの葉の土産をくれたんですよ。飛行機で持ってきて、それを料理してくれたんですよ。そのパレスチナ人の人たちが日本の田舎の人たちとそっくりで、私は山形出身ですけど、訪問するとき、お土産を持ってくるような日本人と同じような習慣を持つ人々が、こんなひどいことにあっているということを、土井さんの話や古居みずえさんの映画を観るまでは、自分も知らなかったです。

 「パレスチナ」の朗読劇をやる時も、筒井康隆さんに出てもらったんだけど、その筒井康隆さんに「パレスチナ問題ってどういう問題だね?」ってほんとに聞かれたんです。普通に生活しているほとんどの人が知らないわけですよ、情報が入ってこなくて。私が勉強した付け焼刃のパレスチナの知識を筒井康隆さんに説明をして朗読劇をしたんです。思い出深いです。
 1週間ぐらい劇団員が徹夜して、いろんな本から抜粋して朗読しました。みんな家で雑魚寝して1週間飲まず食わずに近い状態でやった。

 ユダヤ人の人たちも、(ホロコーストのような)あんなにひどい目に会っているわけじゃないですか。なのにイスラエルの国を作るために、弱い人を犠牲にしなくてはいけない。最後にユダさんが言っていた通りで、「正義っていったい何だろう?」と改めて、『愛国の告白―沈黙を破る・Part2―』を観て、また考えました。

 ずっとこの世の中、紛争が絶えないじゃないですか。
 私は東北の山形の生まれです。このドキュメンタリーを観ていると、平安時代、朝廷が東北に入植しますよね。アテルイ、とモレの二人を坂上田村麻呂が京都まで連れてくる。坂上は、この二人を助けてくださいと朝廷に言うんだけど、ダメだと言われて、首を切られます。
 日本が3つに分裂していたのを一つに統合するために、蝦夷たちがどんどん殺されて、アテルイもモレも殺されるというのは昔の話ではないですか。それを今もやっているということの不思議です。ウクライナ戦争もそうですけど。

 “正義”とは何かというのは、私たちの細胞の中にありますよね。弱い者をいじめちゃいけない。強い者は弱い者をかばうんだというふうに。それなのに、強い者が侵略していって、弱い者を牛耳っていって、蔑(ないがし)ろにしていく。なんでそういうことが起こる世の中で自分たちは暮らしていかなければいけないのか。それをなんとしても、止めることはできないのかと地団駄踏むような思いがいつもするんですよ。だからその中でユダさんのように、「自分の仕事はこれなんだ」という、正義を貫こうとする一握りの人たちのおかげで、私たちがこうやって生きていかれるのかなと。
 もちろん強者、弱者の両方の立場からバランスの良い報道がなされることは必要ですが、その上で、弱者に対しての暖かい眼差しが必要なのではないでしょうか。

ざわざわする生き辛さ

 今日、新宿の街を歩いていると、若者たちが溢れかえっていて、喫茶店で今日しゃべることを整理しようかなと思っても、どの喫茶店もいっぱいで入れないんですよ。すごい人混みです。
 若者たちが歩いていて、みんな『愛国の告白』のドキュメンタリーがあるということを知らないで歩いているんですよね。この『愛国の告白』の次の若者たちが集まる映画で超満員だけど、この『愛国の告白』は少ない人しか見ていない。日本という国に生きている私たちはそれは興味がないようにさせられているわけですね。これをうまくバランスよく、いろんな人がいろんな問題意識をもって生きられるような世の中にならないものかと。やっぱり情報操作されていますよね、私たち。

 宮沢賢治が「世界全体が幸福にならなければ個人の幸福はあり得ない」という言葉を残していますけど、やっぱり誰かの幸せのために犠牲になる人がいると、ざわざわして生きづらいですよね。日本人というのは特に。細胞の中に「助けたい」という気持ちがあるじゃないですか。でもそれを一旦忘れないと暮らしていけないという世の中が、なんか残念だなあと。

 私にとって演劇の創作を続けていくということが、ユダさんに「15年間続けてきたのはどうしてですか?」と聞いたのは土井さんですか?「何で聞くんだろう?」と思うんですね。私もよく聞かれるんですよ。「芝居をやるのに、一銭もトクにならないことを何でやるんですか?」と。「赤字だ、赤字だ」と言っていると、「赤字にならないことをやればいいじゃないですか」と記者の人がおお真面目に聞くと、私はすごく怒っちゃうんですよ。「なんでそんなことを聞くんですか? ゴッホに『なぜ絵を描くんだ?』と聞くんですか!」と。

 土井さんも「命が危険だろうと、ジャーナリストとしてやるんだ」と思うから、止められてもいくんですよね。お客さんが少なくて赤字になっても、映画の劇場上映やるわけですよね。でもそうやってやる人がいないと、絶対に世界とのバランスが悪いわけですよ。
 だからこの映画も観てくださった方が、「あっ、そうだったのか」と思って、今日から考え方を変えようとか、いろんなものを観ようという気になるわけでしょ?

 私も両親の教えで、「自分だけいい気になって、やるんじゃない」みたいなことを、ずっと言われ続きけてきた幼児期だったので、なんかざわざわしちゃう。ディスコで踊っていると、「踊っていていいんだろうか?」と気になっちゃうんですよ。だから昨日まで苦しかった人が笑っている笑顔を見ると、うれしくなる。そういう気持ちでやっているということはないですか、土井さんは? この映画で改めてざわざわする。なんとも許せないのに、なんともできないという思いを再確認しました。

 自分が年を取ってきて、だんだん頑固になってきて、いま一番怖いのは、どんどん過激になっていることです。やっちゃいけないんだけど、戦争を進めるような人を殺したくなるんですよ。わかります? これは本末転倒でしょ?

 この映画の前半で年寄りのパレスチナ人に兵士が「あっち行け!」というシーンがあったじゃないですか。そういうのも殺したくなっちゃう。でもそういう気持ちって駄目でしょ? こっちが正義だと思うことのために、悪だと思っている人を殺しちゃだめじゃないですか。だけど、そういう気持ちになっちゃって、どなったり怒っちゃったりしちゃうんですよ。

 これって危険でしょ。年を取るとどんどんエスカレートしちゃうから。それをなだめて、どんな人にでもやさしく、「違うんじゃないですか?」と、冷静に言えるような人でいたいと思うし、いつかそういう仏みたいな人になるんだと思っていたんですよ。ところがならないんですよ。年を取れば取るほど頭にきちゃって、この映画をビデオで観た時に、頭にきちゃって頭にきちゃって、「なんでなんだ!」と思っちゃうんですよ。そういう自分の気持ちと、どうやったら折り合いがつくのか、それで演劇を作っているんだなあと思うんですけど。いかがですかね?

人の笑顔が見たい

(土井)えりさんは、雑誌「暮らしの手帳」にずっと連載されていて、それを今日改めて読んで見返したんです。その中で胸に響いた言葉を読ませてもらいます。

 「家を掃除する時間もないくらい忙しい。私の人生はなんだったんだって、そりゃあ考えますよ。
 それでもなぜ、この仕事を続けてきたか。それは、私の作品を求めてくれる人がいるからです。そして悩み多き時間を経ても踏ん張れるのは、私自身が孤独だからです。求めてくれる人の、孤独な人の、生きる糧になりたくて仕事を続けているんだと思います。人の笑顔が見たいんです」

「そして争いは、また多くの復讐の連鎖を生む。その連鎖を食い止めたい。あらゆるアーティストがそう考えていると私は思うんです。負の連鎖を止めたいという思いで、映画を撮り、絵を描いている。私もそうです」

「自分のためだけに踏ん張れないですよ、人は。自分以外の人のために、頑張っているんだと思います。それが「生きる」ってことだから。自分のためだけに何かを作っても、楽しくないし、意味がない」

 と書いていらっしゃる。僕はこれを読みながら、ずっと考えていました。
 えりさんの演劇に行くと、人がいっぱいなんですよ。僕からすると、シュール過ぎてよくわからないなと思うこともあるんだけど、えりさんの頭の中はどうなっているんだろうと思いながら、えりさんの演劇を観ているんですけど、でもお客さんがいっぱい来ている。
 やっぱり「人を楽しまさせたいんだ」という精神ですよね。その精神が作品を通してお客さんに伝わっているんだろうなと。

 一方、私はどうなのかというと、私は他人のために作品を作るということを止めました。「他人のために伝えているんだ」とか、「他人のために現場へ行くんだ」と思ったとたんに、「自分がこんなにやっているのに、例えばお客さんが少ない、自分がやっていることが評価されない」となると、ものすごく落ち込むんですよ。続ける元気がなくなる。
 その時に「いや、違うんだ。自分は現地へ行って、自分の生き方を学んでいる。あの人たちに生きる力をもらっているんだ。せっかくあの現場の人たちに教えてもらったんだから、伝えていきたい。それは他人のためではなく、「せっかくこれだけのものをもらったんだから、人に伝えたい、それはあくまでも自分のため」と自分に言い聞かせているんです。

 えりさんがここで書いていらっしゃることと逆に、僕は「他人のため」と自分で思わないようにしています。そうしないと、「他人のためにやっているのに、評価されない。ちゃんとした見返りがないと怖いし、落ち込む」、「自分のためにやっているんだからいいんだ。それを何人かの人が観てきてくれるなら、それはおまけだ」と思うことで、自分を慰め、納得させているようなところがあるんです。 
 えりさんの「人を喜ばせたい」という気持ちはどこからきているんだろう。それは自信からくるのか、自分がやっていることに、みなさんが応えてくれる、反応してくれることへの自信があるんですか。

(えりさん)自信みたいなものはないですね。映画の中でユダさんが、「私は強くはないんです」と言っていたじゃないですか。ユダさんも支援者がいなければ、独りでは絶対やっていけないし、このまま活動を続けていったら殺されるかもしれない。それを支援してくれる人がいるから、できるということがあると思うんですよね。

 私は人間は独りではできないんだと思っていて、「この人が信じてくれているから」「この人が喜んでくれるから」というのがないと、私はできないですね。私は「自分のためだけ(にやっている)」と思ったら、寝ていると思うんですね。疲れてずっと寝ている気がするんですけど、ただ人が喜んでいる顔が見たくて毎日動いているという感じがするんです。

 今日だって寝ていてもよかったんです。自分の身体のことを思うんなら、休みが一日もないですから、寝ていてもよかったんだけど、「ああ、土井さんのために来よう」と思ったんです。もちろん世の中を変えたい、正義とは何かを言いたいということもあるけど、土井さんが好きだから、土井さんに呼ばれたから来た、だから人のためなんですよ、今日は。自分のためだったら、寝ているんですけどね。それでもダメですかね。土井さんが喜ぶ顔がみたくて今日は来ているんです。「喜ぶ」っておかしいけど、『愛国の告白』をみなさんに観せたい。それでゲストの人に来てもらって、その人に興味がある人を呼ぼうということだと思って。
 でも今日は二十何人しかお客さんがいないから、自分の力がほんとうに足りない。私は落ち込んでいるんです、私は。自分の宣伝効果のなさに。すごく落ち込むんですよ。

 だけど次がある。次にやるときは、こういう宣伝の仕方をしよう。今日はあまり役に立たなかった。友達がみんな本番中で、だから今日来てくれた人には「お願いします」と言って、来てくれた方もいるんです。ほんとは満席にしたいじゃないですか。その宣伝効果がなかったと思って、自分が落ち込んじゃって。だからもっと前から宣伝すればよかったなあと。でも落ち込んでいてもしようがないんで、私は諦めたくないんです。

(土井)今日来てくださった方は、えりさんのそういう言葉を聞いて、また私が読み上げたえりさんの言葉を聞いて、えりさんに胸を突き動かされた人はたくさんいると思います。
 自分の映画についても思うんです。たしかにお客さんの数は少ないかもしれない。でも一人でも二人でも、この映画から何かを感じてくださる人がいらっしゃれば、またえりさんの言葉が胸に響いた方が絶対いらっしゃると思う。だから今思っているんです。数は少なくてもいい、観てくれた人が一人、二人でもいいから、この映画に何かを感じてくださって、生きるヒントをこの映画の中から感じてくだされば、僕はそれ以上の贅沢を言ってはいけないと。
 えりさんの言葉が絶対、みなさんの中に響いている。「宣伝効果」云々ではなく、量よりも質です。

少数派の立場から

(えりさん)ただ、ほんとうにパレスチナとイスラエルの問題とはどういうことなのか。あまりにも日本の人たちは知らなすぎると思うんですね。というのは、日本は敗戦国で、アメリカ寄りですから、それはイスラエル寄りになって、安倍元首相が生きてるときに、「イスラエルを支持する」と公言しましたよね。それまでは日本とパレスチナとは友好関係だったんですけど、オリーブの缶詰も輸入して、いい関係だったんだけど。イスラエル寄りになりましたよね。

 お芝居もイスラエルの作家のものが、いっぱい上映されているんですよ。でもパレスチナ人の作家のものはほとんど上演されていない。そのバランスがよくないと思うんですよ。別にイスラエルに住む人がよくないなって言っているじゃないんですが、バランスよくものごとを知るということが必要だと思っているんです。
 イスラエルは演劇の国ですし、森田未来さんが留学して学んだように、日本との国交もすごく盛んです。ブロードウェイでもイスラエル人の作家が活躍していて、イスラエルの建国もみなよく知っている。しかしイスラエルの人たちが占領しているパレスチナのことに関して、ほんとうに情報が少ないんですよ。

 だからこの映画を通して、実際にイスラエル兵がどんなことをしているのか。それは国のためだという。多数に飲まれていくわけですよ。だけど、少数の人たちの立場に立って考える、それがアーティストの役割だと考えているんですね。

 特に生の演劇は一般の映像のものよりお客さんが少ない。少数の人たちの幸せのためにやっているところがあるので、必ず少数の人達の立場からものを見るということを忘れてはいけないと思っていますので、自分がアジア人で、東北人で、おばさん、独身で、子どももいないという二重苦、三重苦だと思っていて、少数派の一人なんですね。その立場からものを見ることは忘れまいとしていて、とにかく強きを挫(くじ)きではないけど、正義とは何なんだろうということを考える目は、ずっと持っていようと思っています。

 ただ演劇というのは娯楽の部分もありますから、堅苦しい主義を通す押し付けというのではなくて、泣いたり、笑ったりするお芝居を楽しむというのが一番生きていくうえで、ことが重要であることは強く思っているんですけど、今日の映画でも、真実を伝えたいと言うけど、ほんとうに真実はどこにあるんだろうということを常に思っていないと、いつのまにか戦争になったりするんです。いつの間にか、洗脳されているんですよ。それが怖いです。

 だからイスラエルの人も気をつけてほしいんですよ。こういうユダさんたちの活動を阻止しないでほしいと思いますよね。シオニスト(注・パレスチナにユダヤ人の民族的な拠点を設けようと考える人たち)の話もいっぱい出てきていますけど。それが軍を牛耳っているじゃないですか。その人たちが軍事意識を強くもっている限り、戦争が止まらないわけでしょ。どこかで兵器を使っていなかったら、どこかで戦争が起きていないと儲からない人たちが多くて、それで食っている人が何百万人もいるわけですから。
 どうやったら、その連鎖を止められるのか、がこれからのテーマだと思うんですよ。だって、みんな生きるために人を殺しているわけですから。全世界の人たちが、ウクライナ侵攻の問題だって、他人事ではないわけですよ。そうやって世の中というのは動いているわけですよね。

 ユダさんは歴史上、初めてだと言っているけど、これまで同じことがいっぱい起きてきたというのは歴史を紐解いても、弱肉強食の連鎖の中で、今日があるわけですよね。それを何とか止めなくてはいけないと思っていて、諦めたくないんですよ。今、67歳なんだけど、それができないと死んでも死にきれないということはないですか。そのためにどうすればいいのか。演劇の力は弱いですし、じわじわと効く漢方薬みたいにやっていかなければいけないんだけど。でも諦めたら終わりだなあと思うんですよね。

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