Webコラム

『愛国の告白』トーク 13:
ハディ・ハーニさん

2022年12月6日
新宿 K's Cinema アフタートークより

『愛国と告白』公式サイト

ハディ・ハーニさん:東京理科大学経営学部 国際デザイン経営学科助教。在日パレスチナ人/パレスチナ系日本人。

「パレスチナ人」の多様性

(ハディ・ハーニさん)父親がパレスチナ人です。祖父母がパレスチナ自治区出身なので、彼も血筋としてはパレスチナ人ではあるけど、当時の混乱の影響でクウェートで生まれ、国籍はヨルダンです。今はその父も日本で暮らしていて、私は彼と日本人の母との間に生まれ、日本国籍を持った在日パレスチナ人、あるいはパレスチナ系日本人として、30年日本で生活しています。大学の頃からパレスチナ問題を専門として扱うようになって、いま東京の大学で教鞭をとっています。

(土井敏邦)私たちは簡単に「パレスチナ人」と言っちゃうけど、実は多様性があります。だから「パレスチナ人としてこの映画はどうですか?」という聞き方は、ちょっと違うんじゃないかとハディさんと昨夜の打ち合わせの電話の中で話をしました。
 その“パレスチナ人の多様性”について、説明をしてくれませんか?

(ハディさん)外側から内側へと説明していくと、まず私の父のようにアラブ諸国とか欧米諸国、南米など、第一次中東戦争前後の政治的に不安定な時期に、自らの選択で海外に移住し、そこで外国人として、あるいは同化して生活するようになったパレスチナ人がいます。そうした状況を“ディアスポラ(離散)”と呼びます。ディアスポラという言葉は元々、祖国を追われ離散したユダヤ人の状況をさして使われていましたが、今まさにパレスチナ人は、それと同じ状況になっているわけです。

 もう少し内側に入ると、難民となった人たちがいます。先ほどのディアスポラも、ある程度は強いられて移住せざるを得ない状況があったわけですが、ある意味でそれは自らの選択によって移住した人たちです。
 一方で難民というのは、中東戦争などの時期にほぼ強制的に周辺のシリア、ヨルダン、レバノンなどへ避難することになり、そこで“難民”というステイタスに置かれた人を指します。各ホスト国で難民キャンプに押しとどめられ、社会的な権利が制約されるなど、困難な社会的構造があり、そこから脱することも難しい状況にある人たちです。そういう生活をしている人たちが現在、国連の統計では500万人以上います。

 もう少し中に入ると、パレスチナ自治区(ヨルダン川西岸とガザ地区)に500万人くらいの住民がいます。「パレスチナ人」と聞いてまずイメージするのはこのカテゴリーかもしれません。しかし、西岸地区の人たちの生活も、映画にもあったように、地域によって状況は異なり、ガザ地区の生活は特に違っています。

 さらに言えば、現在、「沈黙を破る」のメンバーが住んでいるような、いわゆるイスラエル領とされている地域にも、1948年の第一次中東戦争以前から踏みとどまって生活を続けてきたパレスチナ人もいます。「イスラエル内パレスチナ人」などと呼ばれ、その人口はおよそ120万人程度とされています。一応、イスラエル国籍をもっているけど、社会的なレベルでいうと、「二級市民」的な扱いを受けているとも言われています。イスラエル人口の20~25%の規模です。

 そういう人たちから見えているパレスチナ問題や占領の“景色”と、西岸地区、ガザ地区から見えている“景色”、難民という立場から見えている“景色”、そして私のような、もっと遠くの国でディアスポラとして生きているパレスチナ人から見える“景色”は、それぞれに違っていると知ることが重要だと思います。「パレスチナ人」といっても、一枚岩ではないのです。置かれた社会的状況が異なれば、半ば必然的に、パレスチナ問題全体に対する考え方も多様になります。

相手は「悪魔的な敵」

 ただし、境遇は違っても同じ見え方をする人も当然いると思います。その意味で、私は率直に言えば「沈黙を破る」の人たちの活動にはとても共感しています。もっと平たくいえば、こういう活動をしている人たちがもっと増えればいいなと素直に感じています。私も彼らも、占領を批判するという意味で共通しています。簡単にイスラエルのことを「敵」と表現したくはありませんが、「敵の敵は味方」というわけです。同じ立場のパレスチナ人はいるでしょう。しかし、土井さんもご存じのように、そして私にも容易に想像できることですが、やっぱりこういう活動に反発を覚えるパレスチナ人もいるんですよね。

 おそらくその理由の一つにはイスラエル人とかシオニスト(注・パレスチナにユダヤ人の民族的な拠点を設けようと考える人たち)とかを「悪魔的な敵」としてみることが染みついているという状況があると思います。しかしこれは、イスラエル国防軍がパレスチナ人を一括りにして、「潜在的な脅威」だとみなすのと、やっていることはほとんど同じなんです。もう一つには、「沈黙を破る」のメンバーも、「占領」を批判する一方で、必ずしもシオニズムそのものまで批判しているわけではないとみなし、そこに違和感を覚えるパレスチナ人もいるだろうということです。
 私も一「パレスチナ人」として、そういう気持ちを持つパレスチナ人を簡単に責めることはできない。強烈な拒否反応を持つ人は、多くの場合、占領地での厳しい生活を経験をしたパレスチナ人でしょう。残念ながら、私の境遇ではそれをリアルに感じることはできません。

 しかし、こういう状況はイスラエルとパレスチナ双方の側にあって、「お互いさま」ではあるけれども、問題はそこに「対話」がないということなんですよね。相手側がどういう状況に置かれているんだろうとか、「沈黙を破る」のメンバーがどういう気持ちでそういう活動に至ったのかということに、お互いが最初から心を閉ざしてしまって、知ろうとしないんです。これは、占領者やテロリストの気持ちを理解して認めてあげようとか、正当化しようということを言っているわけでは全くありません。あくまで私が必要だと感じるのは「対話」なんです。その先にしか落としどころはない、本当の平和と和解はない、と私は信じています。その意味で、お互いにもう少し歩み寄る必要がある、ということは強く思います。反発する気持ちも理解できるけど、より多くのパレスチナ人がこういう映像に触れるべきではないかと強く感じます。それによって非対話的な態度を相対化し、イスラエル人とパレスチナ人という括りを超えて、平和と正義を目指す人々がより広範に繋がりあう必要があると思います。

構造と対話

(土井)13年前に『沈黙を破る』という第一部を作った時に、西岸かガザで生まれ育って日本に来たパレスチナ人が、私の映画を観たときに反発したんですよ。「こういう映像を見ることで、イスラエル人があたかも良心的な人がたくさんいるみたいなイメージを持たれる」と。

 これは私もよくいうことですが、イスラエル人の中に、「私はパレスチナ人の中に友人がたくさんいます。だからうまくいっているんです」という言い方をする人がいる。
 それは日本が中国北部に侵略し満州国を作ったとき、あそに住んでいた人がこんなことを言います。
 「私は近所の中国人と仲がよかったんです。問題はなかったんですよ」という言い方をする。

 しかし大きな構造が見えていない。満州だったら、日本が中国大陸に侵略し、占領しているという大きな構造を抜きに語る。イスラエル人も、「私は良心的な人間で、パレスチナ人と仲良くやっています」という言い方をする人は、自分たちの国がパレスチナ人の土地に侵略し占領しているという構造を抜きに、「個人と個人が仲良くすれば、問題が解決する」ような幻想を持っている人がいます。

(ハディさん)パレスチナ人に限らず、アラブ人の間では「タトビーウ」という言葉がよくつかわれるんですよ。normalize、正常化するということ、「自然のものとする」「普通なものとみなす」といった意味です。イスラエルとの関係については、この言葉はとてもネガティブな意味合いで使われるんですね。

 例えばヨルダン川西岸地区中でも、エルサレムではパレスチナ人とイスラエル人の交流が比較的多くあり、「イスラエル人の友達がいる」といった話があったりします。しかしそういう人たちに対しては、土井さんが仰ったように「もっと(パレスチナがイスラエルによって占領されているという)大きな構造を思い出してみないのか」という感情が向けられることも多いのです。つまり、占領状態が長年続いているのに、お前はその占領者との関係を「正常化」しているのか、俺たちパレスチナ人はイスラエル人との戦いの最中なんだぞ、というわけです。

 たしかに、そうしたレベルへの想像力は必要だと思います。占領という構造的暴力は確かに存在しています。しかし同時に、「沈黙を破る」のメンバーたちも言っていたように、占領自体がお互いの人間性を奪うという構造であること、そしてそこでは相手が“人間扱い”されないということが一つの重要な示唆だったと思います。
 つまり、このことを考える時には、暴力や支配という大きな構造として捉えることも必要ですが、しかし同時に、自分たちがやっていることの先にいる相手がどういう顔を持っていて、どういう人間なのかということを思い起こす必要もあると思うんです。「分かり合えるかもしれない」という感覚は、大きな構造のレベルではイメージしにくいんです。ふつうに友達になれる、という人間同士のレベルでは持てる感覚が、「大きな構造」にかき消されてしまえば、対話の道は閉ざされてしまいます。対話が無ければ残された道は暴力のみです。究極的には、どちらかがどちらかを滅ぼすまで争いが続くということです。私はそのことに危惧を覚えるんです。
 だからこそ、大きな構造として捉える視点だけでなく、その対極の捉え方も重要なんだと思います。大きな構造の中にも、やっぱり人間と人間の関係があり得るし、実際にあるんです。この問題はそういう対話の過程であることも、たぶん忘れてはいけないし、その意味で、こうした二重のレベルの捉え方が同じように重要なんだろうなということを感じます。

アイデンティティ

(土井)イスラエル人は「パレスチナ人」という呼び方をしない人が多い。「アラブ人」とぼかす。そして「我われは22か国のアラブ諸国にアラブ人の国々に囲まれていて、いつ潰されるかもしれない」という危機感をあおることで、「愛国心」を掻き立てていく。
 逆に、それだけの多様性のあるパレスチナ人が、“パレスチナ人”という自覚を持たせるものは何か。
 例えばハディさん。日本で生まれ、お母さんが日本人。「日本人」として日本に同化しようと思えばできたはずです。なぜ多様性のあるパレスチナ人たちが自分たちを、「アラブ人とは違う、自分たちは“パレスチナ人”だ」というアイデンティティを持たせるものとは何なんだろう? 何がハディさんを「パレスチナ人」と言わせるんだろう?

(ハディさん)私には姉が二人いるんですけど、二人は私の眼から見れば、「普通の日本人」として生きることを選んだ人たちなんです。パレスチナのことやアラビア語について本格的に勉強したわけでもない。もちろん、そういう彼女らや、それに似た境遇の人々を非難するつもりはありません。

 私自身は、大学時代にアラビア語を勉強し始めたことがきっかけで自分のルーツのことをいろいろ考えたり、勉強するようになって、自覚的にパレスチナ人として、同時にムスリム(イスラム教徒)として生きることを選択したわけですけど、それまではそういう教育を受けたわけでもなかった。それでも自分が「パレスチナ人」であると自覚して、こういう研究や仕事をするようになった背景にあるのは、それが“普遍的な問いかけ”をしていると思ったからだと思います。それは「自分がパレスチナ人だから、この問題をやるんだ」ということではなくて、むしろ「パレスチナとイスラエルの間にこういう状況があるんだ」ということを知った時に、当たり前に「それでいいわけがない」と感じたからなんですね。(「沈黙を破る」創設者の)ユダも言っていましたけど、これは「普通の状態」ではないんです。我われ人類にとって、そんな世界でいいのか、という問題として、このパレスチナとイスラエルを見つめなければいけない気がしたんです。逆にそこから、「じゃあ、自分はパレスチナ人であるべきなんだ」と。私の場合は、そうやって「主体的にパレスチナ人であること」が、この問題を「自分ごと」にするということなんだと思います。私はそれを通じて、またこういう研究に携わることによって、そういう問いかけを私自身に対しても、世界に対しても、日々接する日本の学生に対しても、問い続けていかなければいけないと考えたんです。

パレスチナ問題の普遍性

(ハディさん)「パレスチナ問題をなぜ日本人が知らなければいけないんだ?」という問いがよく投げ掛けられますが、これに対して「日本は中東から石油を買っているから無関係じゃないんだ」とか、「イスラエルとも中東諸国とも国交があるんだから、国際関係的な力学の中で、日本も部外者ではないんだよ」といった説明がよくされるんですね。それは間違ってはいないんだけど、明らかに不十分です。国家間の利害の問題だけではないんです。もっと広い意味で、あそこにある“不正義”、あるいは“植民地主義”、“占領という暴力”といったものが、この時代に生きる人間として「それでいいのか?」という、そういう問題なんです。もっと広く言えば、「対話を拒絶する態度」という問題でもあると思います。それって、彼らの文脈だけの問題ではなくて、この地球を共有する人類として考えるべきです。

 「それをそのまま放っといて、知らないふりをして生きていていいのか」という問いかけじゃないかと思うんですよね。だからその意味で、たとえば土井さんが手掛けられた作品のように、日本と韓国との関係、フクシマの問題、またウクライナとロシアの問題なども、根っこの部分では共通したテーマが横たわっているんじゃないかなと思うんです。

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