2022年12月9日
新宿 K's Cinema アフタートークより
鈴木啓之さん:東京外国語大学・アラビア語科を卒業後、東京大学修士、博士課程を修了。博士論文「 蜂起<インティファーダ>:占領下のパレスチナ 1967–1993」が「南原繁記念出版賞」を受賞、「東京大学出版会」より同名の著書として出版(2020年)。2019年より、東京大学特任准教授。専門はパレスチナ現代史。大学1年から「土井敏邦・パレスチナ記録の会」のボランティア・スタッフとして活動。
(土井敏邦)もう十数年のお付き合いをさせてもらっている鈴木啓之さんに来てもらいました。彼も昨日トークに来てくださった山本薫さんと同じく東京外大のアラビア語科の出身です。なぜアラビア語科に進んだのか、なぜパレスチナなのかなど、まず経歴から話をしてくれませんか。
(鈴木啓之さん)いま東京大学の特任准教授をしています。私がパレスチナに関心を持ったきっかけや経過については、土井さんとの関係とも関わってくるので、話の最初には相応しいと思います。
2001年9月11日、ご覧になった方も多かったと思いますが、あの頃NHKでニュース10という番組をやっていました。当時、私は中学生で、風呂から上がってちょうど10時のニュースを観て寝るという生活をしていたんですが、10時にニュースを見たとき、ニューヨークではビルから一つ煙が上がっていた状態で、10時3分、現地時間で9時3分に2機目が突っ込む。日本国内でもかなり多くの方がNHKや他の局の生中継で2機目の突入を観た方がいたのではないかと思います。私もその一人でした。
その時に中学生ながらに思ったのは、「何か大きな戦争になりそうだ。もう片方はどうなんだろう」という関心は持っていました。まずアフガニスタン攻撃が翌月の10月にあって、アフガンに関心を持ってもよかったんだなあとも思ったんですが、2003年、ちょうど高校1年生になろうとしている時期に「イラク戦争がもうすぐ始まるが、止めようがない」という時に、非常に怒りと不安を覚えました。
私にとっては、初めて目の前で戦争が起きるという経験でした。その時にNHKのドキュメンタリー番組でエドワード・サイード(注・パレスチナ系アメリカ人の文学研究者、文学批評家。主著「オリエンタリズム」)というパレスチナ人の思想家がいるんですけど、そのサイードという人物がカイロで、あるパレスチナ人と「今何が起きているのか。これからどういった世界になるのか」を語る、非常にお堅いドキュメンタリー番組をNHKでやっていたんですね。「サイード“イラク戦争”を語る・開戦前夜カイロ」というドキュメンタリーでした。
サイードだって60歳を超えている。もう一人のパレスチナ人も、私から見たら「おじさん」で、その二人が滔々(とうとう)と、「自分たちのアイデンティティがわからない、パレスチナ人であることはどういうことか」「国籍ってなんだろう」と、ずっと悩みをしゃべり続ける。その時、なんという世界があるんだろうと思いました。
私自身は国籍であるとか、出自であるとか、そういうことに疑問を持たずに生きてきたんですが、なんとなく後ろめたさと、そしてこの二人の人物、サイードはその年に亡くなるので晩年ですよね、その二人がずっと悩んでいるこれって何なんだろうと思ったんです。そこから“パレスチナ”に関心を持ちました。
それでアラビア語を勉強しようということで東京外国語大学に入りました。ただ、語学の入門では、もちろんずっと言葉を勉強するんですね。英語の三人称の「S」に当たるような動詞の変化をずっと覚えていく。
そんな中で、なかなかパレスチナの核心に入らなかったんですが、横浜の近所に、土井敏邦というジャーナリストが講演会をやっているというので、私は出掛けていきました。当時、横浜国立大学の学生さんたちが土井さんの勉強会をしていました。2007年1月、大学1年生の時です。
「ああ、こんな人がいるのか」と思いました。横浜のご近所だったんですが、うかつですよね、気づかなかったんです。
その時、私に影響を与えたサイードのあのドキュメンタリー番組のコーディネートしていたのが土井さんだったこと、サイードの対談相手がラジ・スラーニという、ガザ地区出身の弁護士の方だとわかったんです。
その後、ラジ・スラーニさんは2014年に来日されて、土井さんの案内でいっしょに福島へ旅行しました。その時、ラジさんからいろいろお話を伺うことができました。非常に印象深く覚えています。それが私のパレスチナとの出会いであり、土井さんとの出会いでもあります。
(土井)学生のボランティアだった人が、まさか東大の先生になるなって思いもしなかったので驚いています。
鈴木さん、パレスチナの専門家として、この映画をどう見るんだろうととても気になっているんだけど、率直にあなたの批評を聞かせてくれませんか。
(鈴木さん)前作の『 沈黙を破る』は2009年の公開ですよね。私が学生ボランティアとして土井さんの家に行き始めた頃、土井さんが初めてパソコンに編集ソフトを入れて、「ああでもない、こうでもない」と言いながら、映像編集を始めた頃でした。その頃、学生ボランティアが何人か集まってテープ起こしをしたり、英語の翻訳をしたりして手伝っていました。そういう時から、土井さんの長編映画の作成過程から観ています。
土井さんの映画の特徴として“共感”というのがとても大きい。今回の映画に関しては、それが非常によく出ていると思います。土井さんは相手から揺さぶられたりとか、相手を人間として尊敬できたりとか、そういう方にカメラを向け続ける特質がある。逆に言うと、ボランティアを撮られたことがないので、ボランティアは人間性という点では土井さんを揺さぶらなかったのかなあと思うところですが(笑い)。
土井さんは、この人の話は他の人に聞かせてみたい、自分だけではもったいないという感覚で撮られているのだと思います。だからこそ、時には映像として回りくどく感じられたりとか、ああこの話は何度も聞いたよなとか、一回終わって、また同じシーンから始まるような、繰り返しのように感じるところはあるんだけど、実は、土井さんの“共感”の過程を私たちは追体験しているのだと思います。
だからこそ、この映像の中で出てきた人々、登場人物をどう位置付けるのか、私たち観客が問われる、恐い映画でもあると私自身は思っています。
土井さんがインタビューしている元兵士たちはマイノリティ(少数派)ではあるけど、現在のイスラエル・パレスチナを象徴する動きを捉えているんだろうなと私は理解しています。占領が“日常”であること、本来なら“非日常”であるべきことが日常としてあること、あとは逃げ場のないシステム、個人がどんなに人間として振る舞おうとしても、あるところで人間性を奪われるような環境、社会的な同調圧力、あとは人間性の境界線、ここまでは同じように扱う、ここからは別、という非常に冷徹なもの、そういったものも捉えていると感じました。
この映画を「希望の物語」として観るべきか、「絶望の物語」と観るべきかと、会場の人にも土井さんにも聞いてみたいと思うんですが、なぜそう考えるのか。
ポスターのコピーは「兵士か、人間か」というタイトルなっています。イスラエルの公式見解的に言えば、「兵士であり、人間である」と答えられるでしょう。「人間的な兵士なんだ」「道徳的な軍隊なんだ」と。
だけど、今回の映画で出てきた方々は、「それは両立しえない」という結論を私たちに突き付けているんだと思います。人間であるならば兵士になれない。占領体制がある限り、両立は不可能だということを言っている。これは非常に深刻な問いを投げかけます。というのはイスラエル国家にとって、「兵役」「軍隊」というのは、日本でいうと小中学校の基礎教育とか、または国民年金、健康保険といった、当然それがあるべきもの、国民として当然のものだと捉えられているからです。それが「人間性を奪うもの」であるというふうに突きつけている。これは、イスラエルの根幹を揺るがしかねない。そういった映画だと思います。
では、これは「希望」なのか、「絶望」なのかということですが、一つは「希望の物語」として私は受け取っています。それはイスラエル社会内部の変革であるとか、気づきであることです。声は小さい。だけれども戦闘部隊に在籍していた兵士たち、これはイスラエル国内でもエリートであり、強靭な肉体をもった理想的なイスラエル人であるわけです。その人たちの告発であるわけですよね。理想の社会を目指していく。兵士として経験してしまったことを反省し、もっといい社会にできるだろう、これじゃあ、おかしいというふうに言っている。
イスラエルにおける文学であるとか映画の表現としてで、「shooting and crying」と一般に呼ばれるものがあります。「撃ってしまった後に泣く」つまりカタルシス、人間性を取り戻していく形式の文学があります。
典型的な映画は、日本でも公開されたアリ・フォルマン監督の『戦場でワルツを』というアニメ作品だと思います。「難民キャンプを囲い込んで虐殺が起きていたのに、私は止めなかったんだ」と言って泣いてみせる。
だけど、『沈黙を破る』は泣かないんですよね。自己救済を目的にしていないんです。新しい段階での、自らの見つめ直しが起きていると考えられます。これは一つ、“希望”だと思います。
ただ一方で、“絶望”も感じるところがあります。それはこれまでのイスラエルでの平和運動の系譜を考えれば、35年、パレスチナを取材された土井さんならわかっていただけると思いますけど、かつてはイスラエルに兵役拒否という動きも大きくあった。特に1982年、レバノンにイスラエルが侵攻した時に、「イェシュ・グブール(境界線がある)」という運動が起きて、その中で兵役に行かないと拒否する。こんな状態では協力はできないという動きがあった。だけれども、「沈黙を破る」の兵士たちはそこでの気づきではない。兵役について、現場で観て、内省をしていく。この点で言うとイスラエルの平和運動が後退しているようにも見えかねない。この点では若干の絶望を感じるかなと思っています。
ただそういう気づき、土井さんの映画は何かの結論を示す映画ではないと思うのです。いろんな重たいものを見せていって、最後に「みなさん、どう思いますか?」と言って、音楽もかけずに暗くなって終わる、そういう形式ですので、私も、ご覧になった皆さんも、「なんかこう、うまく消化できないなあ」と思って帰っていただければ、成功なんだろうと私は思っています。
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